MENU
あらびか
20代3000万円FIREを目指す独身男性
京都大学卒|JTC勤務の会社員|低資産での最速FIREを目指す|極貧節約生活

【wakatte.tv炎上】京大卒が考える「高学歴で良かったこと」3選

目次

学歴系YouTuberのwakatte.tvに関して

最近、学歴系YouTuberのwakatte.tvの話題でずいぶんSNSが賑わっています。

事の発端は、九州大学大学院法学研究院の岡﨑晴輝教授さんによるこちらのポスト。

wakatte.tvというYouTube番組を知りました。大学の入学難易度を基準に学生をからかうというスタイルには強い嫌悪感を覚えます。高田ふーみんなる人物が「痛い人」であることを全国に発信するのは本人の自由ですが、多くの受験生や大学生を巻き込むのは、大学人として看過できません。

https://x.com/seikiokazaki/status/2084253814337818632

こちらのポストが投稿されたのは8月3日ですが、約1週間が経過した現在では引用RT数は約4000件に上っており、未だに関連ポストが多く流れてくるような状況です。

学歴を基準に人間を評価するような内容の発信をしていることや、学歴社会そのものに関して様々な意見が飛び交っており、世間の学歴というテーマに対する関心の大きさを改めて実感しています。

僕自身は京大卒なので一般的には高学歴とされる部類かと思いますが、まずwakatte.tvの活動に対する僕のスタンスとしては、どちらかというと否定的です。

学歴を基準に人間を評価するような価値観は、世間的には悪いこととされているものの、実際のところは心の奥底で持っている人はそこそこ多いと感じていて、wakatte.tvの彼らも該当するかと思います。
そして、多くの人はその価値観を隠すでしょうしwakatte.tvの彼らも活動前は隠していたのでしょうが、学歴に対する世間の関心の強さに目を付け、ビジネス目的として炎上覚悟で発信をしているという構造でしょう。

法律には反しないが世の中にとって悪影響を与えることを自覚していながらビジネスとして取り組むという行為は珍しいものではなく、wakatte.tvもその内の一つです。
彼らも根っからの極端な学歴至上主義かどうかは別として、世間から強く批判される覚悟は持っていると思うので言いますが、間違いなく多くの人を傷つける低俗なコンテンツであり、批判されてしかるべき発信だと思います。

個人的には法律などのルール云々よりも、周囲に不利益や悪影響があるか、という基準で物事を判断するタイプなので、wakatte.tvには批判的という感じですかね。(法律を軽視するわけではありませんが。)

さて、僕自身のwakatte.tvに対するスタンスはこのくらいとして、今回は炎上から触発されて「学歴」というテーマについて少し考えてみたいと思います。
学歴に関する話題は世間でも尽きませんが、今回は京大卒という世間では高学歴とみなされる立場の僕が感じる「高学歴で良かったこと」についてまとめます。

先に断っておくと、今回の話は「IQが高い」「教育面や金銭面で家庭的に恵まれている」といった学歴と相関のある内容についてではなく、「自分が高学歴であるという事実」そのものに関して良かったと感じる点についての内容です。
また、辞書的な意味での「学歴」は偏差値や難易度の話ではなく高卒か大卒か大学院卒か、といった修学歴のことらしいのですが、今回の内容は正確に言うと「学校歴」が高いこと、すなわち高難易度・高偏差値大学に入学・卒業したことという基準で学歴という言葉を用いています。(本来は誤用みたいですが現代では一般的になっているので。)

高学歴で良かったこと3選

「幸せ」に関する理解が進んだ

持続的な幸せとは、他者との比較によって達成できることではない。

このことは、現在の僕にとって極めて重要な価値観であり、人生における様々な選択をするうえでの指標にもなっている考えです。

子どものころの僕は「競争」に対して非常に積極的で、競争に勝つことこそが幸せであり、競争に負けた者や競争から降りた者は不幸であるという価値観を持っていました。
それは、偶然僕自身が小さい頃から競争にある程度勝てる側の人間として生まれたからというのも理由の一つですが、それ以上に学校教育の構造そのものによるものが大きかったように思います。

勉強が得意かどうかはテストの点数という明確な基準によって判断され、足の速さを競う運動会のリレーでは勝ち負けの瞬間を友人や保護者を含む大人数に見られます。

最近は多少変わってきているのかもしれませんが、少なくとも僕が育った環境では全てにおいて競争を感じていましたし、親や周囲の期待に応えることが嫌いではなかった僕は競争に対してかなり積極的でした。

京大に入学した理由も、紛れもなく受験という競争に勝ちたかったからです。
中学時代は受験や学歴の知識に乏しかったために、地元の公立高校の中で優秀な人が通う偏差値50台後半の高校に入学しましたが、高校入学後にネット等で学歴に関する世間の価値観に触れるようになり、この競争に負けるわけにはいかないと強く感じていました。
この分野の勉強がしたい、こういう職業に就くために知識を付けたい、といった立派な考えはほぼ皆無です。

受験生だったころの僕は、「京大に合格して受験競争の勝者にさえなれば、自分を誇らしく感じることができ、自己肯定感が高い状態で今後の人生を歩むことができる」と心の底から信じていました。
そして、受験に合格して晴れて京大生としての人生が始まり、この考えが完全に間違いであったことに気付かされます。

確かに合格直後は、自分が京大に合格したという事実は自己肯定感を大きく高めましたし、かなりの幸福感に包まれていたことは間違いありません。
しかしそのような幸せが続くのはせいぜい数日、長くても1ヶ月程度のものです。

京大に入学すると当然かかわる人間の多くは京大生なわけで、自分の特別さなんて一切ない感じないどころか、地方の偏差値50台の公立高校から一人で来た自分とは生まれも育ちも違い過ぎる優秀な人間が大量にいる環境です。
京大に入るくらいのことなんて当たり前だと感じている人も多くいますし、受験などあまり眼中になく大学レベルの学問に入学前から取り組んでいる人もいます。

このような環境に身を置くと、普通に生活している限り自分が優秀であるという意識は一瞬で消え失せます。
地元の友人と頻繁に会ってちやほやされるような人ならまだマシかもしれませんが、僕の場合は地方から下宿していたため、生活で関わる人間の大半が京大生になったわけですから当然です。

しかし、この経験が僕の中での幸せに関する現在の価値観を形成するうえでかなり重要だったと、今になると強く感じています。

結局人と比べて上か下か、ということを基準に幸せであり続けるためには、世界一になるまで登り詰めなければならないのです。
まあ世界一と言わずとも、身近に敵う人間がいないレベルまで自分の地位を高められる人は、ある程度幸せを感じ続けることもできるかもしれませんが、僕を含む世の中の大半の競争に勝ち続けられない人間は、間違いなくどこかでどう足掻いても勝てない相手に出会います。

そんな時、人との比較のみが基準になってしまっていると、客観的にはどう見ても優秀で恵まれた人であったとしても、本人にとっては不幸を感じるという極めて歪で勿体ない状態に陥ってしまいます。

では幸せについてどのような価値観を持つべきか。
それは、決して他人ではなく、自分自身を基準にするということです。

競争の相手すべきなのは他人ではなく、過去の自分です。
すなわち「競争」よりも「成長」に焦点を当てるということ。

「今までの自分にはできなかったことができるようになった。」
「今まで持っていなかった考え方をできるようになった。」
「知らなかったことを学び、新しい知識を得た。」

人間は行動さえすれば昨日の自分から少しずつ成長することができます。
この点に幸せの基準を置きます。

そしてもっと言うと、人によっては成長すら必要としない場合も大いにあると思っています。

自分にとって心地いいと感じる時間を多く取り、不快と感じる時間をできる限り排除する。
美味しいものを食べたり、ぐっすり眠ったりして、緩い充足感を感じながら、ただ日々を過ごしていく。

成長しないことに焦りを感じる人は多いですが、もし自分がそう感じないタイプの人間であるならば、そのように人生を過ごし続けていても一切問題ないのです。
むしろ極めて持続可能で幸せな生き方だと思います。

というか、色んな成長の選択肢が存在するのなんて人間の長い歴史の中ではせいぜいここ数十年の話であり、少し前までは食べることや安全な場所で寝ることだけに必死になり、目の前の生にしがみつくような人生を送る人の方が一般的だったはずです。
そうやって精一杯人生を全うした過去の人間たちが、不幸な人生を送っていたかというと、全く持ってそんなことはないでしょう。
それらも等しく素晴らしい人生です。

世間には競争に負けた者、競争から降りた者に不幸のレッテルを貼る、高校生以前の僕のような人間が沢山いると思います。
そのような人間にどう思われたって、僕の幸せには全く影響を与えないのです。
なぜなら彼らは僕の幸せの基準である僕自身ではなく、ただの他人に過ぎないから。

このような幸せに関する価値観を持つことができたのは、「高学歴」になっても持続可能な幸せに達することができなかった経験による部分が大きいです。
もちろんわざわざ高学歴にならなくてもこの価値観に達することができる人もいるかもしれませんが、少なくとも僕はできなかったか、もしくはもっと時間がかかったと思います。

「高学歴にさえなれば幸せになれたのに」と、競争に着眼点を置いたまま人生を歩む時間が短く済んだことは、高学歴で良かったことの一つです。

パワフルな友人に出会えた

世間でよく言われる「優秀」とか「人としてまとも」のような単語ではなく、あえてこの単語を選びますが、「パワフル」な友人に出会えたことも高学歴で良かったことの一つです。
「パワフル」という単語を選んだのは、「高学歴の方が人間的価値が上」という話ではなく、単なる特徴に過ぎない部分の相関の話をしたいからです。
ここまで読んでくださっている方は理解いただけると思いますが、僕は学歴によって人間的価値が上か下か決まるという価値観は一切持っておらず、単なる受験勉強という狭いカテゴリにおける得意不得意の指標でしかないと考えていることはここで改めて断っておきます。

そのうえで本題に戻りますが、京大で出会った友人たちは、他で出会った友人たちと比較して明らかにパワフルです。
これは因果ではなくあくまでも相関ですが、僕の経験のみから統計を取ると間違いなく偏差値とパワフルさには相関があります。

僕は地方の公立小学校→公立中学校と進学した後、地元ではそこそこ優秀な人が進学する偏差値50台の公立高校、そして京大、という感じでかなり幅広い偏差値帯のコミュニティを経験してきました。
このような経歴の人間は全くいないわけではありませんが、京大生の大半は偏差値70以上の高校出身者であるため、そこそこ珍しい人間だとは思います。

そんな僕の経験上、人としての総合的な優秀さに関しては偏差値とそれほど強い相関がない印象です。
当然勉強の得意不得意や論理的思考に関しては偏差値と相関がありますが、コミュニケーション・スポーツ・芸術・恋愛など様々な分野の得意不得意は個人によるところの方が圧倒的に大きいと思います。(むしろ高学歴な人間の中は勉強以外の分野は極端に苦手な人も多く見受けられるので、負の相関がある可能性すらあるかもしれません。)

しかし、勉強の得意不得意以外にも、「パワフルさ」という点に関しても強い相関があることを経験上確信しています。
これも良い悪いの話ではありませんが、僕が小学校や中学校で出会ってきた人の中には、「どのような意見を持っているのか」「何に対して情熱を持っているのか」「普段何に時間を費やしているのか」があまりはっきりとしないタイプの人がそこそこいました。

置かれた環境に従い、言われたとおりのことをやり、その時々の流行りに合わせて周囲と同じように物事を楽しむといったタイプで、これは別に珍しくもないというかむしろ世間全体でみればこういう人の方が多数派かもしれません。

当然それもまた、本人が満足さえしていれば素晴らしい人生の一つですが、僕個人として興味が湧いて仲良くなりたいと感じるのは、何かしら明確な思想や情熱を持っている人間であることが多いです。

自分にはない価値観に触れ、どういう根拠でそのような思考や行動に行き着いたのか、それを考えることに非常に楽しさを感じます。
まあ僕自身が3000万円でFIREしようとしていることからもわかる通り、かなり明確な思想を持っているタイプの人間なので、仲間意識を覚えていることによるところもあるのかもしれません。

京大で出会う人たちはそういった、わかりやすく言うと「尖った人」「自分軸がある人」が圧倒的に多い印象を受けました。
あえて悪く言うと、「ひねくれもの」で人の意見を鵜吞みにせず、論理的でなくて納得できないと感じたらどれだけ世間で認められていることでも批判するような人です。(みんな自分の論理に自信を持っているのだと思います。)

京大で出会った友人たちといる時とそれ以外で出会った友人たちといる時では、会話の種類が全く持って異なります。

後者では共感や価値観の共有が大半を占める、いわゆる一般的な日常会話ですが、京大で出会った友人との会話は基本的に議論です。
周りから見たら喧嘩にも見えるようなやり取りでありながら、当事者である僕たちは一切喧嘩だと思っていません。

これが圧倒的に僕たちの相互理解や関係性を深め、お互いへの興味関心を強めます。
彼らがどのような思考回路で物事を捉えるのかを理解しており、さらにそれぞれの思考回路も全く持ってバラバラなので、その行き着く先の人生がどのようになっていくのかを非常に楽しみに感じます。

高学歴でなければ高学歴と仲良くなれないわけではありませんし、高学歴でなければそのようなパワフルで尖った人と仲良くなれないわけでもありませんが、「同級生」という立場は彼らとの関係を構築する上で圧倒的に役に立ちました。

彼らにとっての僕自身も「興味深い人生を送っている尖った奴」であり続けることで、面白いコンテンツを提供できればと思います。

院卒FIREという選択肢を得られた

最後の一つは、本ブログのテーマであるFIREに繋がる内容です。

僕自身、京大を卒業後は京大院に進学し、そのまま同分野メーカーの研究職として働きながらFIREを目指しています。
せっかく大学院まで出ておいて、たった数年働いただけでFIREしてしまうというのは、一般的には経歴の無駄遣いであり勿体ないと感じる人が多いというのは理解していますが、僕にとっては結構悪くない選択だったかもしれないなと思っています。

確かに院卒であることの金銭的に最も一般的な恩恵は、社会に出るのが遅れてしまう代わりに生涯収入が高くなる、という部分にあるとは思います。
しかしこの「社会に出るのが遅れる」ということは悪いことばかりではありません。
これは「すぐに社会に出なくて済む」と言い換えることができます。

僕のように家庭環境に恵まれて奨学金なしで大学院まで修了できる人に限られてはしまいますが、FIREを達成するまでに必要な働く期間が短くて済む最も再現性のある方法は、「院卒FIRE」だと思っています。

長く働いてもいい場合なら高卒で寮のある企業の工場勤務や、就活に突破できる能力があるなら学部卒で商社やコンサルなどに就職するという選択肢ももちろんありますし、人によってはそれらが正解であることも大いにあります。

しかし僕のような人間はとにかく会社員である期間を短くしたいと感じていますし、面接やグループディスカッションのような瞬発力が求められる状況で能力を発揮することは苦手なのでおそらく超高収入な業界への就職には苦戦するはずです。

一方で「院卒FIRE」、これは僕のような理系院からのメーカー就職に対する意見ですが、かなり再現性が高く難易度的にも狙いやすいバランスの良い方法だと思います。

メーカー技術職では商社やコンサルほどの年収はないものの初任給から十分高水準な年収が貰えますし、その割には就職の倍率も高くないです。
就活の内容としても自身の研究内容に関する話がメインになることが大半なので、しっかりと準備をすれば瞬発力に自信がない人でも十分戦えます。

さらに地方勤務で寮があることも多いので、生活費を圧倒的に抑えられることもあり、難易度に対する資産形成スピードの期待値はかなり高いはずです。

僕は就活が偶然上手くいって業界最大手に就職できたので年収も業界最高水準ですが、院卒メーカー技術職の場合は多少企業のランクを落としたとしても、初任給が大きく下がることはないです。
京大まで行かなくても地方国公立くらいの高学歴であればどこかしらのメーカー技術職には就職することは難しくないので、もし勉強が本当に苦手というわけではないのならば、院卒FIREを目指して勉強に力を入れるというのも悪くない選択だと思います。

あまり一般的ではない「院卒FIRE」という選択肢、初めから目指していたわけではなく偶然この立場になっただけではありますが、この選択肢を得られたのは高学歴であることの思いがけないメリットでした。

ポイントサイトのハピタスを活用しながら資産形成を一緒に頑張りましょう。
下のリンクから会員登録し、条件をクリアしていただくと、 皆様には最大2,300ポイント、私には3000ポイント+αが付与されます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント(初回は承認後に表示されます)

コメントする

目次