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あらびか
20代3000万円FIREを目指す独身男性
京都大学卒|JTC勤務の会社員|低資産での最速FIREを目指す|極貧節約生活

現代人の不幸を嘆く人たちが気付いていないこと

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現代人の不幸を嘆く人たちが気付いていないこと

現代人は他の世代に比べて不幸だと言われることがよくあります。

この意見は特に日本において顕著で、かつてのような経済成長はなくなり、少子化・高齢化率は世界でもトップクラスとなっているという点で、「こんな状況で将来に希望を持てるわけがない」という雰囲気が蔓延しているように感じます。
労働者世代の間では、「ここまで日本を衰退させた高齢者が憎い」「国民にまともな生活をさせられない政治が悪い」といった怒りの感情が渦巻いてすらいます。

また、昔に比べて求められる”普通”の基準が上がっているために不幸になっている、ということ。
インターネット・SNSの普及によって大衆の生活や意見が可視化されるようになり、華々しい人生を送ること、失敗をしないことが評価されるようになっています。
ルッキズムの加速によって、イケメン・美人と認められるための基準が高くなっていることも、まさにこの例ですよね。

このように様々な観点から、現代人は不幸になっている、現代人は幸せになることが難しいと感じてしまうことは理解できます。

しかし、僕としてはこのような声を耳にするたびに、「この人たちは何か勘違いしていないか?」という風に感じています。

僕たちは貴族ではない

現代人の不幸を嘆く人が気づいていないことの一つは、僕たちは「貴族ではない」ということ。

確かに日本における経済成長の停滞や少子高齢化は事実ですし、戦後の高度経済成長の頃のような「これから自分たちの暮らしはどんどん豊かになっていく」「頑張れば頑張っただけ報われる」という未来への希望に満ちた状況ではないということはわかります。

しかし、そのような日に日に社会が豊かになり、生活が楽になっていくような環境というのは、果たして当たり前のこと・幸せになるために必要なことなのでしょうか?
決してそんなことはありませんし、人類の長い歴史の中で見たときに、むしろこのような急成長があった時代というのは例外ともいえるほどに短い期間なのです。

狩猟や農耕によって生活していた縄文時代は1万年以上続いていました。
その中で一切技術の発展や進化がなかったとは言いませんが、おそらく毎日その日を生きるために行動していたでしょうし、「将来の劇的な発展・豊かさを夢見て、今を我慢する」といった価値観はなかったはずです。

文明や社会が発展し、平安時代ごろには貴族と呼ばれる、特権や豊かな暮らしが可能な身分が生まれます。
その頃の日本の人口は約1000万人であったのに対して、貴族は500~1000人程度であったと言われているそうです。

要するに、そのような他者から全てを与えられて豊かな生活を送る一部の身分が生まれた頃であっても、そのような身分は極限られた例外的な人間だけのものであり、それ以外の大衆、すなわちほぼ全員は結局目の前の一日一日を生きるために行動する日々を送っていたのです。

では現代において、あなたは貴族と呼ばれるような、1万人に1人の選ばれし人間でしょうか?
僕は違います。

現代の経済的な状況を高齢者や政治のせいにしている人、現代ではまともな生活を送ることが難しいと嘆いている人の意見を聞いていると、なぜか彼らは「東京で暮らすこと」「家を買うこと」「外食をすること」などを”まともな生活”の基準にしており、それらが叶わなければ満足できないと考えているように見えます。

でもそれらの行為は、本当に”まともな生活”の基準ですか?
むしろ、描いている理想の中の最上級のものではないですか?

もしあなたが平安時代の貴族に該当するような選ばれし人間ならば、そのような最上級のものを手に入れようとするのはわかります。
でもそうじゃないですよね。

だったら、それらをダウングレードしたものを妥協点として受け入れることは至極当然のことでしょう。
東京で暮らせないなら地方で暮らせばいいですし、家を買えないなら賃貸でいいですし、外食なんてしなくても自炊すればいいはずです。
そして、それらは確かに現代に存在する最上級のものとの比較では妥協になりますが、過去と比べたときには物凄い贅沢とすら言えるほどに恵まれたものだと思いますよ。

現代ではどんなに田舎で暮らしていても最低限の設備はありますし、電車や飛行機を使えば1日以内に日本中どこへでも行けます。
賃貸であっても雨風は完全にしのげますし、ほとんどの家ではいつでも蛇口から水が出てコンセントからは電気が使え、エアコンで気温すら快適に調整できます。
自炊する場合でも、いつでも新鮮な魚や野菜がスーパーに行けば揃っていますし、レシピの情報も数えきれないくらいあって安く美味しいものを作ることだってできます。

これらのことは、少し前の世代の人間からしたら信じられないくらいの贅沢です。
選ばれし貴族ですら手に入れられないほどの生活です。

結局、現代を金銭的・経済的に不幸な世代だと考えている人は、知らず知らずのうちに豊かさの基準を物凄い高さまで上げてしまっているのです。
そのような高い基準を当たり前のように設定してしまっているということは、自分が必死に行動しなくても生きることができる環境で暮らしてきたということでしょうから、一度自分の人生が長い人類の歴史の中で、どれほど恵まれているかを考えてみるべきだと思います。

他人から称賛されることは当たり前ではないし、大して価値もない

自分の中でも基準が上がっているだけでなく、社会全体の雰囲気として求められる”普通”の基準が上がっているということを主張する人々。
彼らもまた大きな勘違いをしていると思っています。

彼らが気づいていないこと、それは「他人から称賛されるような人生を送ることは並大抵のことではない」ということ。

普通の基準が上がっていると言いますが、普通の基準の定義は何ですか?
おそらく普通の基準が上がっているということを主張する人たちは、無意識のうちにその定義を「他人から称賛されること」「他人に嫌われないこと」のように他人の評価を軸にしたものにしてしまっているのではないかと思います。

確かにインターネット・SNSの発展により他人の意見が身近に感じられるようになり、称賛されるような華々しい成果を出している人を見る機会も増えていることはわかります。
でも冷静になって考えてほしいのは、あなたがこれまでの人生において、学校や会社などの現実で出会ってきた人たちの中で、「この人は凄い」「この人はとても尊敬できる」と感じるような人はどのくらいいますか?

数える程度しかいないのではないですか?
なんなら、パッとは思いつかないという人もいるのではないかと思います。
僕は、正直頑張って思い返せば何人かは思い浮かぶかなくらいの感覚です。

では逆に、これまでに出会ってきた”悪人”ってどのくらいいますか?

この場合も同じで、おそらくそんなに多くの人間が思い浮かぶことはないと思います。
確かに頑張って思い出してみれば、嘘をつく人や、みんなが頑張っている中で輪を乱すような人など、良くない行動をする人もいなかったわけではありませんが、別に後になっても忘れられないほど嫌な思いをしているわけではないですし、彼らが悪人かと言われると、そこまでではないような気もします。

つまり、世の中のほとんどの人間は、少し時間が経てば記憶から消えてしまうような、何の印象にも残らない人間なのです。
僕の中ではこれこそが”普通”の基準だと思うんですよね。

確かに他人から称賛されている人を見ると、羨ましく感じて自分もそのような立場になりたいと思うというのは理解でいなくはないです。
でも、そのように他人から称賛されるということは、並大抵のことではないということを忘れてはならないと思いますし、決して称賛されることが幸せの条件であるはずもないと思います。

そもそもよく考えてほしいのは、他人から称賛されることって本当に必要なことか?本当に価値のあることか?ということです。

僕は地方の偏差値50台の高校に通っていましたが、同級生の中で唯一京大に合格しました。
その時、確かに優越感を感じて一時的には幸せになりましたし、友達はもちろん、喋ったこともないような同級生からも称賛されることが多々ありました。
僕は運よくこのように称賛されるような経験をできましたし、確かにそれは同級生数百人の中から僕一人が成し遂げた選ばれし功績だとは思います。

でも冷静に考えたときに、それで僕の人生が幸せになることが保証されたかというと、1ミリもそんなことはないんですよね。
確かに彼らは僕に対して、合格の話を聞いたその瞬間だけは「うちから京大合格者が出たんだ、すげー」と思ったでしょう。
しかし、断言しますが、そう思った数分後には、僕の京大合格のことなんか彼らの頭の中から消えていますし、その後思い出して「やっぱり彼は凄いなあ」と再び称賛するようなことなんてないですよ。

他人の称賛なんて、その程度のものなのです。
称賛してくれた彼らには申し訳ないですけど、正直言って幸せな人生を送るという観点においては、全く価値のないものです。

同様に、現代人は他人から嫌われることを過剰に恐れている傾向があると感じていますが、嫌われることも大したことないです。

もちろん重大な犯罪を犯した場合など、会話をすることすら憚られるような恐怖の感情を抱かれるレベルであれば生活に支障が出るとは思いますが、そうでなければ幸せな人生を送るという観点ではほとんど影響しないことです。

無能だと思われたとき、不細工だと思われたとき。
それらが本当に何かしらの実害を与えてくるかと考えてみれば、決してそんなことはないと気付くことができますし、取るに足らないことであると気付くことができるはずです。

本当の幸せを自分で見つけること

現代人が不幸な世代であるなんて言うのは、幻想です。

むしろ生活の便利さ、与えられるものの多さ、安全が確保された生活、どれをとっても人類の長い歴史では類を見ないほどに恵まれた世代です。

では、それでも不幸だと感じてしまっている人が多いこの世の中で、どうすれば幸せになることができるか?

それは、徹底的に自分と向き合い、自分にとっての本当の幸せとは何かを見つけることだと思います。

妥協してはいけないだとか、周囲と比べて劣っているといった間違った価値観を捨て、自分が本当に幸せを感じるのはどういう時か?と納得できるまで自分に問うことが大事です。

僕にとっての幸せは、会社員として会社に時間を捧げる代わりにお金持ちになることではなく、家でゆっくりとコーヒーを飲みながら映画を見ることでした。

正直言って僕の資産形成力は並大抵ではないことは自覚しているので、このまま本気でお金を稼ぐことに注力すれば30代の内に資産1億円を貯めること、死ぬまでに10億円を超えるような資産を形成することも不可能でないと思っています。
あくまで計算上の話ですが。

その方が多くの人から称賛されるような人生にはなるでしょうし、大きな家に住み、美味しいレストランに好きなだけ行くことだってできると思います。

それでも自分の本心に向き合ったときに本当に心の底から欲しているのは、時間的自由があり、誰からも称賛されなくても好きなことをしてゆっくりと生活することなのです。

称賛されなくても、馬鹿にされても、勿体ないと言われても関係ありません。

そしてこのような生活を送るうえで、現代の日本というのはかつてないほどに恵まれた環境であることを改めて感じました。
この恵まれた世代に生を受けたことに感謝し、幸せな生活を送るために必要な最低限の資産を貯めるための会社員生活をもう少しだけ頑張り、なんとか乗り越えようと思います。

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コメント(初回は承認後に表示されます)

コメント一覧 (2件)

  • 文章を読んでいたら、何故かキケローの「スキーピオーの夢」と宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」が連想されました。
    情報過多の時代、自分軸で生きることはなかなか難しいかもしれませんね。

    • 今回もコメントいただきありがとうございます。
      お恥ずかしながら、スキーピオーの夢は存じ上げなかったため少し調べました。
      名誉や称賛の観点で、僕の考えと近い部分があるかもしれませんね。(要約を見ただけなので、間違っていたらすみません)
      現代は情報が多く選択の自由も多いですが、それゆえに間違った道を選びやすいという点では難易度が増しているところがあると思っています。

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